サステナビリティは共通言語になりうるか?


すっかり間が空いてしまいました・・・ほぼ一カ月…。

このところバタバタ続きだったけれど、ようやく安定しました。仕事はちゃんと続けていますから、安心してください!!

さて、最近の疑問をここでぶつけてみることにします。

6月末、イギリスに行ってきましたが、日本のSRIやRI業界の中よりもはるかに、「環境=サステナビリティ」という、方程式が暗黙の了解とされているような感覚を受けて帰ってきた。なぜだろう?排出権ビジネスに関して盛り上がっているそうだし、(それは日本も前からだ)おそらく国策あげてのグリーン・ニューディールが影響しているのだろうが、本当にそこまで盲目的に「環境対応活動」を信じていいのか?というところがどうもひっかかってしまう。

FTSEのウィル・オルトンが日本に来た時も、「環境ばかりのテーマに特化していると、Fake Sustainable、Fake SRIになってしまうんじゃないの?」と聞いたら、「Fakeかあ・・・」という感じでどうもぴんと来ない。

イギリスの投資業界やある一定のクラスの人々が、環境に対して、ある意味盲目的に行け行けGOGOの姿勢なんではないか、というあたりが心配になってしまった。もう環境の話は「正義」の話と同じくらい、当たり前、それができない人は市場追放、とでもいう雰囲気だろうか。

ただ、日本のように逆に今までSocialという言葉が浸透してこなかった言説空間と、Socialの発想が別の流れとして非常に強く機能しているイギリスやヨーロッパの言説空間とは、全く違うということを、日本人は理解して、この流れを見なければならないと思う。

Obamaがいくら環境政策に力を入れたことを話したとしても、そのバックグラウンドには、医療や健康、人種、教育、といったSocialに含まれるイシューについてさんざん議論を続けてきた言説空間があり、その上で、「新しい付加すべきイシューとして」環境の側面があるのである。日本のように、環境はずっとひとつの技術として根付いてきた国に比べ、この言説空間の違いは大きい。日本で不安なのは、欧米の言説を見様見まねする方々によって、環境の側面だけが最重要課題として認識されてしまう可能性があることだと思っている。

サステナビリティという言葉一つをとっても、環境側面はその1要素でしかないことは、人々は体験的に知っているのではないか?

たとえば、排出権ビジネスだけを考えれば原子力はCO2を削減するからOKなのであるが、本当に原子力は「サステイナブル」なのだろうか?私にはこの答は相当の慎重を要するとは思うものの、いつかは必ず訪れる原子力の廃棄問題を考えると、それは回答を後伸ばしにしているだけにすぎないと、いつも思っている。

にわか環境銘柄への買いや環境ビジネスベンチャーへの注目の状態の中で、「環境関連をやっていれば何でもいいのか?」という議論に私は加担することになるだろうと思う。なぜなら、同じ風力発電でも、環境だけでなく人や地域や現地の経済性やカルチャーに配慮しない限り、風が来てブレードが回り続けたとしても、「その地域を破壊する」力を持つかもしれないと思ってしまうからだ。

「環境」という言葉が、収益を追い求めるビジネスとしての要素が強くなる限り、「破壊力」を持つかも知れず、それによって与えられる影響について考慮しないで、環境関連の投資をむやみやたら支援しようとするのは、不思議な話である。他の要素になると、慎重になるにも関わらず、分かりにくい「サステナビリティへの将来的な貢献」の定義を作り出すこと自体はかなり大雑把にやらざるをえない様子だ。

今、日本人の言説から見ると、イギリスやヨーロッパの楽観的な機運はそんな状態に見えてしまう。

ここで、「サステナブル」の定義があいまいなままディスカッションが進んでいくことが、なんとなく怖い。

「サステナビリティ」と言った際に、「環境」だけを指す人もいれば、社会的な持続可能性も含めて話す人もいる。私の場合は、もともとが社会的な持続可能性ありきで「サステナビリティ」の意味合いにアプローチしていったバックグラウンドがあるため、「環境」だけで話す人といろいろ話していると、全く違うイメージを共有しているときがあって、驚いてしまう。

Sustainabilityの言葉の発端は、1987年の最終報告書“Our Common Future”という国際連合ブルントラント委員会の報告書でキーワードとしてあがったものと言われている。この中で、Sustainable Developmentとは、「将来の世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たすような開発」と言われた。

これを所与の定義として考えてみると(実際のところは上記の定義で行く、と全ての人が合意したわけではないけれど)、どこにも環境のことも社会的課題の解決のことも触れられていない。演繹的にさまざまな問題を指し示すことはでき、その中に環境や社会的要素が含まれてくるが、それよりも「ニーズ」という言葉が上位概念に来るというところが面白いと思っている。

これは経済的な意味での「ニーズ」だろうか?経済的な意味でのニーズなら、収入を減らすな、という話にも捉えられる。「現在の収入を減らすことなく、将来の収入も確保する開発」だ。

では人々が生きていく上での他の「ニーズ」だろうか?

きれいで安全な水を手にし、医療へのアクセスが十分保たれ、教育へのアクセスも足りるようにすること。これが自分たちだけでなく、次世代の子どもにも、ということだろう。

この解釈が間違っていないのであれば、Sustainabilityが包含するものをもっと考えなければならないだろう。もしかしたら、きれいで安全な水と空気だけはふんだんに手に入っている未来があったとしても、その水と空気を享受している子ども達が、医療も受けられず、将来の不安を抱えながら、教育にも熱意を持てない状況が、はたして「次世代のニーズを満たした」と言えるかどうか?環境とSocialはなぜか分割して考えられることが多いのだけれど、私は分割できないリンケージがたくさんあることを知った上で、そのつながりを断絶させない言葉をえらんで、1980年代に「Sustainable」という単語を選んだのだろう、と理解している。

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